sey

アクセスカウンタ

zoom RSS 宗教の本質―永遠性の理解―

<<   作成日時 : 2015/05/27 22:13   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 0 / コメント 0

 宗教は全て何らかの形で永遠性を前提としている。それは生命的因果と言い換えてもよい。つまり宗教の本質概念は時間である。特に近世以降に宗教改革を経て、宗教の内面化が行われた宗派では、これが顕著な特徴となっている。

(唯一神教と宗教の内面化)
 宗教改革とは自分自身への宗教の内面化である。端的には聖職者の権威や教会・寺院の存在を否定して、自身の内なる神・仏を認めることにあると言ってよい。それは17世紀の近代合理主義と矛盾がないように再構成された宗教とも言える。正確に言えば、法として存在する「究極的実在」The ultimate realityを認めることを意味する。

 元々、大文字で表現されるキリスト教のGodとは一神教の神を意味していた。近代合理主義とは超越的、絶対的存在としての神・仏を相容れないものとして否定する。西洋において宗教改革以降は、神とは我が内なる神を意味するというのが共通の認識であり、「良心」の言葉に置き換えられることもある。
 デカルト、パスカル、ゲーテ、カント、ベートーベンが高らかに表現したGodとは、キリスト教の一神教の神ではない。法として存在する「究極的実在」を意味しており、それは決して超越的な特定の絶対神のことを意味していない。だからこそ洋の東西を問わず広く受け入れられたのである。いわば、あなたと私に共通の神=神性に他ならない。西洋の知性が理解するする神の概念とは現在このようなものである。
 一方で、東洋の仏教徒が仏とは我が内なる仏Buddhaと表現する場合もこれにあたる。普遍的な仏=仏性(ぶっしょう)を意味している。絶対的、超越的存在としての仏を意味しているのではなく、まして金ぴかの仏像のことを言っているのでもない。
 カントは『実践理性批判』の結びで「いかに感歎しても感歎しきれぬものは、天上の星の輝きと、わが心の内なる道徳律」と語っている。これは宇宙と我に共通の形式・構造としての究極的実在を意味していると解釈できる。

(キリスト教の伝播・変遷)
 キリスト教は地中海沿岸に発生して、広くヨーロッパに伝播した。4世紀にはヨーロッパで公認、国教とする国が現われ、ローマ帝国でも国教化と他宗禁止が行われた。しかし国家権力に迎合したキリスト教はやがて変質が始まり、宗教裁判とスコラ哲学に象徴される中世の暗黒時代を迎えることになる。そして聖職者の世俗化と教会の腐敗のためキリスト教会は内部から崩壊して、16世紀の宗教改革の波にさらされることになる。プロテスタント運動によりキリスト教会は大きく2つに分裂した。

 一方、15世紀半ばからの大航海時代にはアジア、アフリカ、アメリカに多くの宣教師が送られた。それはヨーロッパによる植民地主義的な海外進出に伴ったものだが、最初は「異教徒」に対して「我々の神を信じなさい」とのあいさつから布教が始まったはずである。なぜアジアを始めとした他地域でキリスト教が広まったのか。様々な説明があるが最大の理由は、文化も習慣も異なる民衆の中で教えを広めようとした宣教師の熱意と人柄にあったに違いない。宗教とは人によって広まるものだからである。宗教の是非は国家が決めるものではない。

 しかし現代の視点から見ると、超越的、絶対的な一神教の神・仏とは民族神話に基づくものしかなく、科学的知見や合理的・論理的思考にはとうてい耐えられないので、採用することができない。二重基準となるので突き詰めて考えると、自身の心の葛藤、ジレンマに陥る。

(宗教間の対話)
 近代合理主義の洗礼を受けた現代人にとって、西洋人と東洋人が宗教間対話で究極的実在について共通認識に到達するのは、お互いの絶対的存在としての「我が神・我が仏」を受け入れて、理解するからではない。異なる文化や宗教儀式への興味はひとまず置くとしても、本質的には対話の結論としてお互いに共通の我が「内なる神・仏」の理解に到達するからに他ならない。つまり欧米人がGodと表現したとき東洋人は内なるBuddhaと理解でき、東洋人がBuddhaと言ったとき西洋人は内なるGodとのことと分かるからである。
 当初キリスト教徒がギリシャ・ローマの神々、ユダヤ教、イスラム教、仏教などを異教徒と呼んだのは、我が神=唯一絶対神と考える古い、独善的な考えに基づいていたと評価できる。それは本質の理解ではなくて、異なる文化や宗教儀式の外面を言っているに過ぎない。つまり表面的な差異を語っているだけで、共通の普遍性までを理解して言ったものではない。離婚・再婚を認めないなど旧教にはまだその残滓が残っていると認められるが、宗教改革という宗教の内面化を経たキリスト教ではそのようなことはない。だからこそ普遍的価値観を重視する現代において、異なる宗教間の対話が可能なのは当然のこと。それは「人間のための宗教」という視点である。

(ユダヤ教三兄弟)
 ユダヤ教、キリスト教、イスラム教はともに民族神話による同じ一神教のヤーヴェ(エホバ)神と基本聖典に基づいている。このためユダヤ教三兄弟と表現されることがある。しかし極言すればヤーヴェとは民族神でしかない。インド神話に基づくシヴァ神、日本神話の天照大神となんら異なることはなく、他の民族に普遍性を感じさせることはない。キリスト教では現在ヤーヴェをLord(主)と言い換えているが、普通名詞として使うときはGod(神)が使われる。現代の成熟した民主主義社会にLord(主)の概念は、いかにも主従関係を連想させ、古色蒼然のものと映る。そこには他の生物や自然に対して、人間を支配者とする傲慢な選民意識も読み取れる。

 キリスト教の創始者は弟子の一人であったパウロである。実在した人間キリストの本意と最も異なると思われる教義が「キリストの復活」である。さらにキリスト教ではキリストが神格化され、父・子・精霊の三位一体論が作り上げられた。後に宗教画に描かれているキリスト復活を見ると、後光(リング)のついたキリストが救済のために民衆の前に現れた姿が描かれている。誰であれ故人の死を悼み悲しむ心情はあるとしても、理論でも現実でも死者が復活することはない。創作との評価となる。死、殉教は宗教心を高める。「復活」はそうではない、荒唐無稽の話しとなる。
 キリストは実在した人物で、その語った言葉と行動は弟子たちによって伝えられている。キリストが語った核心部分とは当然ながら「あなたと私は同じ(人間)である」と理解できる。なぜなら宗教が人間のためのものである限り、平等主義は教義の根幹に位置づけられるからである。
 このため、パウロにより創始されたキリスト教とは当初から神格化、神秘主義、偶像崇拝、聖職者中心主義を含み、後に難解・屁理屈の代名詞ともされるスコラ哲学としてまとめ上げられることになる。真理は単純であるとの観点から評価すると、180度異なるキリスト教が生まれたと言ってよい。

 マックス・ウェーバーの名著『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を出すまでもなく、宗教改革とはキリスト教をキリスト本来の姿に戻すものだったと言える。このためキリスト教の宗派の中には、聖職者否定、無教会主義のものもある。当然ながらその場合にも信徒の集会施設はある。

 なお、ユダヤ教は戒律を通じた正しい生き方を重視する。同じくイスラム教も戒律を重んずるが、神の言葉とされる聖典中心主義。しかもアラビア語のコーランのみが聖典とされ、他の言語に翻訳されたものは聖典と認められていない。その解釈は聖職者のみに独占される。
 ユダヤ教とイスラム教にはともに偶像崇拝はないが、これが聖典原意に近い。なお、十字軍による侵略戦争の例のように、磔の十字架像(悲劇的な死)はしばしばユダヤ人を含む異教徒への憎しみを喚起するとの指摘がある。プロテスタントでは現在慣例として十字架のみを掲げている。もちろん誰にせよ誰かの罪をあがなうことはできないのは明白。

(永遠性の理解)
 ユダヤ教、キリスト教、イスラム教はルーツが同じなので、共に「最後の審判」という概念がある。唯一神教であるのも同じなので、いつとは分からない遠い将来に、神による最後の審判が行われ、すべての死者が蘇り、善人は天国に行くとの内容となる。現在これを信じて合理的と擁護すると人はいないと思うが、実はこのストーリィには大事な視点が含まれている。それは全ての宗教に共通のもので、「時間」ないし「生命的因果」と表現されるものである。

 哲学は正しい認識の方法について語る。しかし宗教は正しい生き方の根本について教える。だからどんな主義・主張があったとしても、人は宗教的心情を持たずに生きることはできない。日常生活を送るためには、複雑でグローバルな相互依存関係の中で他人の善意を感ぜざるを得ないし、それを信じなくては一瞬たりとも生きていけないからである。そして、自己意識のある人間は「精神の空白」を耐えられない。
 全ての道徳や宗教に共通の規範とは、「盗むな、殺すな、他人を愛せ」である。死者は復活しない、絶対神は存在しないと理解しても、なおかつ否定しても否定しきれないものは何か。それは「善い行いをしよう」「他人に優しくしよう」「自他共の幸福を願う」という心情、つまり宗教的心情である。これこそが我が内なる「神性」「仏性」「良心」である。念のためにつけ加えると、このことは人間の性善説の根拠とならない。人間は「魔性」もあわせ持つのが現実。
 仮に何らかの永遠性を前提しないとしたら、他人への思いやり、他者奉仕には何の意味もなく、人生とは面白おかしく生きれば良いだけとなる。道徳自体も無意味となる。しかしそれは動物と同じく本能のままに生きることに他ならない。悩みは無いかも知れないが、人間の尊厳や人生の意義までも見いだせないままとなる。普通それを人生とは言わない。
 
 キリスト教の人生観・生命観を要約すると、人間は神ではないので永遠の生命は得られない。一方で「最後の審判」の教義を受け入れると肉体は滅んでも、自分の霊魂(個別性)は不滅で、遠い未来に神の「最後の審判」が行われて、自分は復活して善人として天国へ行く、と想定できる。
これを数字で表現すると、
1,0/・・・・/1
となる。1生,0死/・・断絶・・/1復活、と理解できる。これは一見して不合理なものとみなされる。近代合理主義の視点から霊魂と最後の審判を否定すると、死は全ての終わりで何も残らないとの唯物主義となる。もちろん死後も自分が親族や親しい友人の心の中に生きていると考えることはできる。しかしキリスト教徒が近代合理主義と折り合いをつけると、なんという皮肉な結論なのかと驚く。

 これに対して仏教の生命観を表現すると、
・・・・,1,0,1,0,・・・・
となる。これは通常「輪廻」と説明されるが、基本的なロジックはカルマ(業)と表現される生命的因果にある。そして認識論として「空仮中」の概念が援用されている。仏教では、生死はともに実在の現象面であると説明する。釈尊は「仏」の永遠性と説明しているが、仏教の現代的解釈では「生命の永遠」(永遠性、連続性)と解釈される。つまり現在の「私」は過去の結果であり、現在の「私」は未来の成果を創造する。なお、時間の本質とは前後関係であり長さを持たない。長さがあるのは時刻である。いま65歳の高齢者を考えると過ぎた時間はあっという間であるが、これからの20年間(時刻)は長いように感じる。しかし時刻が長いのは過ぎた時間である。
 現象の認識論としては、(1,0)中=生命の本質、1仮=有生出在、0空=無死退滅となる。仮空(け・くう)が生命の現象である。物理的因果と生命的因果を同列に論ずるので、平易で受け入れやすい。
 そして、時間の本質は長さを持たないので、「久遠」(遠い昔)は今、今は「久遠」となる。時間の本質を前後関係と理解すれば、それが永遠性の理解となる。仏教とは生命的因果を基本として生命論を展開したものと認められる。そして時間は前後関係なので、そこから生命は永遠と説明できる。すると仏教の基本概念は時間にあると言える。今この瞬間の生命の一念に因果の全てが含まれ、時間の前後全ても含まれる。大切なのはそれを「我がこと」ととらえるかどうか。

生命とは
今この一念に過去の因・未来の果をすべて含み
今この瞬間に薄紙を隔てたような前後で過去・未来の時間をすべて含む
原因は前に、結果は後に
それが時間の前後

(日蓮仏法)
 釈尊は自身の教えの流布について 正法(堅持)、像法(変質)、末法(消滅)の三つの時期、過程を想定している。そして、その末法に究極の法が説かれると説いている。これは大乗仏教の観点であるが、釈尊の行動原理が「如我等無異」(自分と同じく尊貴にする)であることを考えると、釈尊の本意に最も近い。
 末法の鎌倉時代に、日蓮は究極の実在を「南無妙法蓮華経」と名づけ、その題目を唱える対象として「御本尊」を現わした。既成の宗派は時の権力者と結託し、公開法論の場で宗教の正邪を決する機会をもたせなかった。しかし日蓮は弟子信徒の後継育成に努め、手紙類を含め当時としては例のない膨大な著作を残した。
 日蓮仏法を基本とする創価学会が、僧が上で信徒は下とする宗門と決別(破門事件)したのは、創価学会が人間のための宗教に脱皮するための現代の宗教改革だったと評価できる。いわば魂の独立記念とも言うべき慶事である。それは自らの宗教を客観視することを意味し、「自発・能動」「宿命転換・人間革命」を掲げて仏法を基調とした平和、文化、教育運動を展開する創価学会が世界宗教へと飛躍するきっかけになったと言ってよい。

【注】この文章はキリスト教徒の友人との対話に触発された成果です。私の友人に心から感謝します。

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
宗教の本質―永遠性の理解― sey/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる