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zoom RSS 究極の実在とは何か−日蓮仏法の視点−

<<   作成日時 : 2017/01/08 08:46   >>

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1 生命の奥底―人間の潜在意識―
 古代インドの学僧・無著(むじゃく)、天親(てんじん)は釈迦の大乗経典を解釈して潜在意識を掘り下げ、「唯識論」の仏教哲学を展開している。そこでは、人間の意識・潜在意識を8種類に分類している。
 まず、感覚的意識としての6識とは、
第1識・・・眼識
第2識・・・耳識
第3識・・・鼻識
第4識・・・舌識
第5識・・・身識
 次に、この5識を統合して外界を「認識する自我」として、
第6識・・・意識
がある。ここまでが感覚的意識である。受容器官、受容体ともいえる。
 さらに潜在意識としては、
第7識・・・末那(まな)識/思量識
 これは理性的意識を意味する。このため客観的に自分を認識する「理性的な自我」「内省的な自我」と表現できる。これはデカルトの「考える自我」、パスカルの「考える葦」と同じとなる。ここまでは理解が容易。
第8識・・・阿頼耶(あらや)識/蔵識
 仏教は三世にわたる生命の永遠(永遠性、連続性)を説いている。そして各人の生命に記憶され、蓄積されたすべてを蔵識という。これを善悪の行為の視点からみると、善業悪業の業(カルマ)となる。これは東洋独自の優れた発想。
 蔵識とは各人の生命のメイン・メモリーと考えると、分かりやすい。ふだんの生活ではあまり意識することはないが、障がい、病気、家族の死などをきっかけに宿命・宿業を感じ、生命の因果論を意識せざるを得ない時がある。人は生老病死を避けられない。
 なお、時間・空間は自分との関係性の概念で、長さを持たない。長さがあるのは時刻・距離である。このため、いま自分のこの一瞬に過去の因・未来の果をすべて含み、今この瞬間に薄紙を隔てたような前後で過去・未来の時間をすべて含む。原因は前に、結果は後に。それが時間の前後となる。
 ここまでの第1識から第8識までについて、仏教では各人の生命の境涯・状態によって「染浄の二法」があるとする。悪(魔性)に染まる、善に浄(きよ)める、の2つ。そのため仏教では根本教義として、なによりもまず宿命転換の原理を説いている。

2 阿摩羅(あまら)識/根本浄識―究極の実在―
 中国の天台は第8識のさらに奥に、生命の根源としての第9識・根本浄識を設定している。これは清浄尊極の仏性、仏界の説明のために必要となった概念と言える。天台の一念三千法理を展開するのに不可欠なためである。
 仏教では、人間と環境、森羅万象について清浄尊極の仏性、仏界があると説明する。宇宙を一つの生命体とらえている。これを「梵我一如」(宇宙と我は同一)と表現する。
 これは西洋の知性も同じ。カントは『実践理性批判』の結びで「いかに感歎しても感歎しきれぬものは、天上の星の輝きと、わが心の内なる道徳律」と語っている。これは宇宙と我に共通の形式・構造としての「究極の実在」を意味している。なお、ここで「内なる道徳律」とは我が内なる神God=神性を指しており、一神教の神(ヤーヴェ)ではない。
 根本浄識とは「究極の実在」を意味しており、各人・桜梅桃李の個別性を失わずに、なおかつ「染浄の二法」に染まらない清浄尊極となる。それを仏教では従来「仏」の概念を使って説明してきたが、現代用語では「生命」(仏界)となる。そして、その内容を説明する譬えとして、泥沼にあって清らかに咲き、花びらと実が同時の白蓮華を使っています。

3 相互依存関係−リンゴの木の譬え−
 あらゆる道徳、宗教は他者への奉仕が真の自己充足の道と教えている。
 いま私のそばに一本のリンゴの木があると仮定する。私は空腹のため1個のリンゴをもいで食べた。リンゴは私の命をつなぐ糧となった。しかしそのためにリンゴは命を失ったことになる。
 今この作用を考察すると、私の利己(欲望)のためにリンゴは犠牲となった。しかし、リンゴは利他(慈悲)により献身・奉仕したとも言える。さらに仮に私がもぎとったリンゴを、より空腹を抱えた他人に与えたとする。私は献身であるが犠牲を伴った。そしてリンゴを得た他人は私の犠牲によって奉仕を受けたことになる。このように一つの作用は常に利己と利他の両面がある。与える側は奉仕(利他)で、受ける側は欲望(利己)となる。
 人間は自然の一部である。自分と宇宙は無関係ではありない。いま、無限の時空の中での相互依存関係を想定してみる。自分が日常生活を送るためには、その相互依存関係の中で他者の善意を感ぜざるを得ないし、それを前提として信じなくては一瞬たりとも生きていけない。生きとし生けるものは全て、他者からの奉仕(利他)によって生かされているのが現実である。この無限大の奉仕の視点から、宇宙を根源的に「慈悲」に満たされた存在と説明ができる。
 仏教の「依正不二」(依=外界、正=自分)の概念は、このことを簡潔に説明した理論である。なお、念のために付け加えると、仏教は貪欲、飽食、自然破壊を戒めている。

4 生命の尊厳―法は人の振る舞いに現われる―
 無限大の宇宙をどのように認識するかは難しい。しかし極小の自分を客観視してみることはできる。すると同じように、自分の内に清浄尊極な「慈悲」の生命を認めることができる。
 究極の実在は法として存在する。それを人間にあてはめれば、法とは人の振る舞い、言葉と行動に現われる。釈迦と日蓮は民衆の中で法を説き、目の前の一人を励ました。その「覚者」となった釈迦、日蓮の振る舞いをみると、それは「慈悲と智慧」による勇気の行動だったと認められる。これが仏性、仏界の最も分かりやすい説明となる。そして究極の実在とは清浄尊極であるに違いない。仏界とはある面で「私心のない」「利己のない」生命の境涯・状態である。
 中国・天台は一念三千法理を展開したが、これは現代の仏教基礎理論となっている。それは、自他の相互依存関係の「三世間」と各人・桜梅桃李の「千如是」から各人・生命の個別性を説明している。そして、生命の普遍性を説明するのが、境涯論(小我・大我)としての「十界互具」(百界)である。その全体が一念三千であり、諸法実相となる。つまり、「ありのまま」(諸法)の姿の私が、「そのまま」(実相)の自分となる。
 「十界互具」(じっかいごぐ)とは、十界を境涯(基調)と状態とで二重に立て分けている。たとえば人界は人間で、その生命の基調は「平らか」と説明される。その時の状態により「鬼の目にも涙」とは、鬼のように怖い人でも慈悲はあるということです。「覚者」となった釈迦、日蓮も、弟子・信徒が殺されれば、地獄の苦しみを感じる。
 そして、なにより重要なのは、目の前の一人が「覚者」(仏界)となることは、仏界を同じく我が生命の内に持つ他の人々に対して、人生のモデル・模範となる。なお、「成仏」「成道」を現代用語で言えば、人間革命となる。そして、宗教は法のため時間と距離をいとわず、他人のために法を説こうとする人の振る舞いによって広まる。
 究極の実在The ultimate realityとはいつの時代、どの国どの民族にあっても変わりようがない。鎌倉時代に日蓮は、法として存在する究極の実在を「南無妙法蓮華経」と名づけ、その題目を唱える対象として「御本尊」を現わしている。

5 仏教の認識論―空仮中―
 法とは人の振る舞いの中に現われる。仏界も同じである。絶対的な神仏ではなく、まして金ぴかの仏像でもない。諸法実相では、「ありのまま」(諸法)の姿の私(凡夫)が、「そのまま」(実相)の「仏界」の生命を現わすことである。
 仏教は生命の法を説くために「生死」を中心問題とします。このため現象の認識論として一般では有無の概念ですが、仏教では「空仮中」の概念を使います。仏教では「生死」を生命の現象ととらえます。つまり1生・0死を生命の現象、(1,0)が生命の本質です。今これを空仮中の概念では、(1,0)中=生命の本質、1仮=有生出在、0空=無死退滅となります。仮・空(け・くう)が生命の現象です。「中道」の言葉のように、「中」(ちゅう)は有・無に偏らない、統合した概念です。このため(1,0)生命を、1生物(顕在)、0物質(冥伏)と把握するのが仏教の概念です。
 仏教ではよく「夢と現実」の譬えを使います。夢から覚めると、現実があります。ここで夢とは迷い、現実(真実)は悟りです。いま夢の中では、現われた夢は1仮、隠れた現実は0空です。現実に戻れば、現われた現実は1仮、隠れた夢は0空となります。これが現象です。そしてここでは「迷悟一体」が(1,0)本質となります。「生死一体(不二)」が生命の本質となります。さらに、「生死(苦)即涅槃(悟)」「煩悩(悩)即菩提(悟)」「九界即仏界」も同じように解釈ができます。それを基本とした生き方は結局、「生も歓喜、死も歓喜」につながります。
 もちろん、これは認識論です。具体的にどのようにして、すべての人に普遍的にある、我が生命の内なる仏界(慈悲と智慧)を現わすかです。言い換えれば、小我から大我へ自らの境涯を高めるかです(小我・大我一体)。日蓮仏法では、「御本尊」に向かって自行化他にわたる「南無妙法蓮華経」の唱題を教えています。簡単と言えば簡単です。しかし、これが現代の視点からみた、仏教三千年の帰結です。

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