父の死-私の追悼(平成23年12月30日)-

 父は享年92歳で亡くなりました。臨終の父は安らかで穏やかでした。誰がみても若々しく静かに寝ているようで、私も心が休まりました。それは無言のうちに自分はもういいから、家族で明るく元気に生きろと語りかけているように思えました。【1919.2.1-2011.12.30】

 私の父

 父は、大正8年にふつうの農家に生まれ、父は今で言うと小学校を卒業した時からずっと健康で働いて来ました。当時は食べるため、生きるためにそうするのが当たり前だったと聞きます。職業は旋盤工で、そのため腰痛の持病がありました。さすがに高齢となって目が衰え第一線は退きましたが、定年後も再就職して75歳くらいまで働いていました。働くのが好きで、そうして妻子を養ってきました。
 趣味はあまりなく、読書、買物、テレビの相撲観戦くらい。この年代の多くの方がそうであるように、質素、倹約が信条で自分のためにはあまりお金を使いませんでした。ブランドや海外旅行などとは無縁でした。
 また、父は人から頼まれると断れないタイプで80歳過ぎまで地域役員、役所ボランティアをやっていて、活発に活動をして、よく外出していました。

 在宅介護と私の思い

 母が認知症となり家事一切ができなくなって父は5年間、母を介護しつつ食事、買物などの一切の家事を行ってきました。
 父と母は60年以上連れ添った夫婦です。母が3年前に亡くなってから、父は急速に体力気力が衰えていきました。
 父がひとり暮らしになった時に、あと2、3年生きれば良いと私に言ったことがあります。振り返るとそのとおりになっています。また、父は息子の私に自分の終末介護の世話はさせたくない、嫌だと言っていました。
 92歳の父はすり足のため転倒事故で何回か入退院をしています。父が自宅復帰した時に、私が通いで食事の支度などの家事援助したのは前回の3か月と今回の3日のみでした。トイレ、食事は最後まで自立していました。
 私が退職後に父の家事援助をしたのは、父が認知症の母を5年間、献身的に介護したことに対する息子としての当然の礼儀であると考えたからです。

 安らかな死

 父は12月28日に自宅にて朝食後にふだんとおり勤行・唱題を行い、昼食は大好物のウナ丼を食べ、午後2時に床屋へ車いす介助で出かけています。しかし午後4時過ぎから脱力感が強く、午後8時過ぎに全面介助で入浴を済ませて、ベッドで横になっていました。この時点で水分補給もままならない状態でした。午後10時半頃に明らかに異常な低体温のため救急要請をして入院しました。
 29日には入れ替わり家族が面会したものの、生理食塩水と酸素を投与される中で、父は徐々に全身機能が低下して、翌30日午前0時過ぎに、家族に見守られて亡くなりました。
 入院は実質24時間とあっけなく、家族が看護疲れを感ずることも、経済的負担を考えることもないままでした。
 安らかで穏やかなお顔に接して、父がなぜ息をしていないのか不思議、というのが臨終の際の私の第一印象でした。もう自宅では無理と、父も覚悟の死だったようです。

 やるべきことはできた

 息子の私としては結婚してからあまり父と会話する機会はありませんでした。病院で父のベッドの横に座って思い起こしたのは、幼児の時の父との記憶です。
 幼い頃銭湯で父が片手で私の両耳を強く押さえ膝の上で仰向けにして頭をごしごし洗ってくれた記憶が、いまでも痛かったこととして鮮明に残っています。それは、学歴や出世とは無縁で愛情表現にも不器用な父の、せいいっぱいの愛情だったに違いないと思っています。父は私のことを最後まで「あんちゃん」と呼んでいました。
 病室で父の頭を優しくなでながら、私は父の耳元でもう頑張らなくて良いと繰り返しました。
 最後の日に「床屋に行って、お風呂にも入り、好きな食べ物も食べた」ので父も満足、私もやるべきことはできたと思っています。父が亡くなってまず感じたのは、こうした達成感でした。

 親を亡くして思ったこと

 この達成感の後に続いたのは私の場合、喪失感、開放感そして強い空虚感でした。
 父と母のどちらが好きかと聞かれると、多分多くの方がそうであるように私も母と答えます。生んでくれた恩、出産の大変さを考えると、母の方が好きなのはあたりまえのようです。私の場合、まず母を亡くして、次に父を見送ったので今回は思ったより冷静に対処できたようです。しかしこうして両親がこの世にいなくなり、まず思ったのは自分の出自、ルーツの喪失感といったものでした。もちろん自分には妻と2人の子どもの家族がいるとすぐに思い直しました。
 実務的には今まで、父の生活費を管理して、私のお金と父のお金を分けて考えていました。父が亡くなって、私が一人っ子のためもあり、手元にあるお金が誰のお金か考えなくて済むのが初めはとても不思議でした。
 そしてさらに私が感じたのは、父の食事の支度をしなくてもよい、食事とトイレの見守りをしなくてよい、私は休息でき時間が自由になったという開放感でした。
 しかし、いちばん最後に感じたのは、もう自分が親に何もしてあげられないという、親を亡くした大きな空虚感でした。 

 親のありがたさ

 よく「親はいるだけでありがたい」と言います。私も以前は単に親孝行を勧めた言葉としか分かりませんでした。確かに親がいれば相談ができ、適切な助言や金銭的な援助が得られます。しかし実際に親を亡くして感じたのは、自分がもう親に、何かしてあげることができないという寂しさでした。
 それは言葉を換えると「愛されることではなく、愛すること」ができなくなった、ということです。それは、挨拶や声かけ、用事を頼まれてやる、親の世話をするといったことだけではないようです。仮に親が認知症であってふつうの会話ができないとしても、子どもはやろうと思えば、自分が思ったように親の見守りや世話をすることができ、最後のみとりもできるので幸せだ、ということです。
 人は愛することに、より大きな喜びを感じるもののようです。その意味で私の場合、認知症の母とひとり暮らしの父の介護を私なりに、悔いなくできたことが子どもとしての私の最大の幸せだったのかも知れません。思い起こすと母の入院は19日間、父の入院は実質24時間と短く、家族の看護疲れもなく、2人とも足早の覚悟の死で、敢えて言えば子ども孝行の親だったようです。きっと両親が子育てを楽しい記憶として残したように、あたかもギブアンドテイクの関係で、私も両親の介護で楽しい思い出を作ったようです。

 父の口癖

 大正生まれの父は口下手で、ふだんから多くを話すことはありませんでした。口癖の「いいよ」は他人には誤解されやすく、父は耳が遠いこともあって時に了承したものと逆に受けとられ、家族が困ったこともあります。また、すべて挨拶は「どうもね」で済ませていました。これには、ありがとう、済まないね、世話になるね、これからもよろしく、またね、といった様々な意味があるようです。
 食事の支度をした際などに、「美味しい」「ありがとう」の一言でも言ってくれれば良いのに、と私が気にしたこともあります。
 若い頃は大酒飲みでよく暴れたと聞き、息子の私から見ると必ずしも仲の良い夫婦だったとは思えませんが、父の最晩年は明るく温和な性格で、私の妻や2人の孫にも大事にされていました。
 臨終の厳粛な心の会話で、きっと父は「どうもね」と言ったに違いないと私は確信しています。92歳の父がいまさら挨拶の仕方を変えるはずもなく、まして亡くなってみれば、この挨拶が父の思い出として残らざるを得ないようです。

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【母の死-私の追悼(平成21年4月3日)】 へ
https://sey.at.webry.info/201204/article_2.html

この記事へのコメント

2012年04月15日 15:00
思わず涙してしまいました。……
後記事からさかのぼって来てしまいました。
お父上様と同じ年代の父母を持つ私には、とても共感を覚えます。
ただ、違うのは私の場合は父が72歳で24年前に他界、母は、現在96歳で車椅子生活~認知症が現れてきている状況…。

「親を亡くして感じたのは、もう親に何もしてあげることが出来ないという寂しさ」……
私は教えられました。現在の状況を省みると…恥ずかしい限りです。
親を看取れる幸せを忘れないよう、日々親の思いに添って共々に暮らして生きたいと思います。
有難うございました。皆様のお幸せをお祈り申し上げます。

2012年04月16日 09:28
mikiさん、コメントありがとうございます。
やはり自分は一人でないと励まされました。私の周りにも老々介護が多いです。
あなた様のブログを拝見して、和歌や写真の趣味がおありなので、気持ちの切り替えには良いことと感じました。
私もどちらかと言うと産みの母への愛情が強かったようで、最初に母を亡くした時はかなりのショックでした。いま父を亡くして思ったのは、これで息子の役割は終わったということです。私の場合、後は夫、親、祖父の役割が残っています。
介護、みとりは人様々のようです。お母上様の介護が心静かで安らかなものとなりますようお祈りいたします。どうかお身体をご自愛ください。
ももにゃん
2012年09月07日 02:39
はじめまして 今年3月に母を癌で他界その後父がおかしくなり5月に認知症と判明した者です。日記を読ましていただき思わず涙がでました。これから始まる介護や認知症の進行に不安を 前向きに考えて行こう 思えることができました。
お父様お母様のご冥福お祈りいたします。ありがとうございました。

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