2016年5月・紀伊山地の旅-熊野古道【5】

【まとめ】
1 世界文化遺産・紀伊山地の霊場と参詣道Sacred Sites and Pilgrimage Routes in the Kii Mountain Range
 構成資産の内容としては、
①吉野と大峯・・・山伏修行の拠点
②熊野三山・・・熊野信仰の中心地
③高野山・・・真言密教の根本道場
④参詣道・・・それらを結ぶ道
から構成される。背景は紀伊山地の豊かな自然環境。古代には山や森には神が宿るとされた。そこは神秘的とも言える生命力に満ち溢れている。

2 吉野と大峯(山伏修行/権現)
 大峰山脈は紀伊半島の中央に南北約150kmにわたり1000m級の山が連なり、近畿の屋根とも大和アルプスともいわれる。主峰は八経ヶ岳1914m。この大峰山脈は北の吉野山から青根ヶ峯(峰)858mまでを「吉野」、以南の熊野までを「大峯(おおみね)と呼ばれてきた。7世紀に活動した山伏・役小角(えんのおづの)は、大峯・山上ケ岳(さんじょうがたけ)1719mを中心に大峰山脈を山伏修行(修験道)の場として開き、平安時代以降には吉野と大峯は霊地として参詣者を集めた。人物については後代の創作がかなりあるが、日本における山岳登山の創始者とみなしてよい。大峯奥駈道は吉野~山上ヶ岳~熊野本宮170kmを結ぶ世界遺産・熊野古道のひとつで、最も急峻な尾根ルート。
 もともと山伏修行の本院は吉野・金峯山寺(きんぷせんじ)で、大峯・山上ヶ岳にある大峯山寺(おおみねさんじ)は奥の院の扱いだった。明治以降は神仏分離令・修験道廃止令の影響を受けて、別個の寺院となって今日に至る。本尊として独自の蔵王権現をまつるのは理論を仏教に求めたもの。また、役小角も神変大菩薩とされる。山上ヶ岳は今でも女人禁制のしきたりが残るが、その他は女性も入山可。また、大峯山寺は冬季9/24~5/2は閉山、山伏も吉野へ降りる。
 なお吉野町は人口減少が続く、現在7800人。

3 熊野三山(熊野権現)/宗教は人間のためにある
 熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社の3つ。主神は一般的に熊野権現とされる、権とは仮の意味。元々は自然や祖先を起源とする地主(じしゅ)神・民族神をまつる神道であったが、平安時代には庶民を中心に浄土宗の影響を受け阿弥陀などの本仏が仮の神として現われたと教義内容が変容。また熊野全域が浄土・霊地とみなされ、熊野詣の難行苦行自体が信仰の目的となった。しかし江戸後期の紀州藩、明治政府の神仏分離策により熊野信仰は衰退に向かう。ちなみに、この宗教政策が後に日本の国粋主義、国家神道そして無謀な戦争への遠因と評価ができる。それは明治政府最大の愚策と言える。
 宗教の是非は民衆が決めれば良い。沖縄では現在も神社は熊野信仰が主流。民衆史観の視点からは江戸から明治への転換は単なる支配者層の交替と映る。江戸幕府の最大の愚策は海禁制度(キリシタン禁制)と寺院を権力機構の末端に組み込んだ寺請制度。愚かな権力者に振り回されただけの国民こそ犠牲者。明治政府は単に江戸幕府と違うことをやっただけ・・・どっちもどっち・・・共に愚かな支配者層との評価となるのは明白。それが史実。民衆こそ歴史の主体者のはず。
 現代の視点からは、国家神道のように権力に迎合した「宗教もどき」は、その存在意義を失っていると言える。アジアの一部の国では今なお鳥居の形は侵略と人権侵害の忌まわしい記憶として残る。
 熊野詣の難行苦行は登山とよく似ている。人はなぜ山に登るのか、そこに山があるからとは名言。私も若い頃は各地の高山を目指した。頂上からの景色、登頂後の飲食との答えもあるが、やはり登坂の辛さとその後の達成感にあると思う。いわば過程を楽しみ、途中で自分自身と対話している。頂上に行くなら現在はヘリコプターも可能だが、それを登山とは言わない。麓から1歩を踏み出すこと自体がすでに登山のはず。常に前への姿勢がすべて。
 参詣道、巡礼道を歩くのはいわばハレの日の行為。言ってみれば自分探しが目的と私は考える。合理的に考えれば、何回も同じ場所を訪問するとしたら、その理由はこれ以外に考えられない。それは自分の外に神仏を見るのではなく、自分の内に神仏をみる行為だと言い換えができる。宗教のための人間ではない。宗教は人間のためにある。

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熊野三社の主神
※和歌山県世界遺産センター展示&交流空間Kii Spirit(田辺市本宮町)の写真展示から※拡大可


4 高野山(真言宗)
 高野山真言宗の拠点。高野山は京都から離れているが、これは弘法が若い頃に山野で修業、自ら高野山開山を朝廷に願い出たため。やはり背景は豊かな紀伊山地の自然環境にある。高野山の金剛峯寺(こんごうぶじ/宗務所)は弘法大師座像、金堂(本堂)は薬師如来、根本大塔は大日如来をまつる。寺院の縁起が理由だが、まさに本尊雑乱。なお、同じく弘法が建てた京都・東寺は真言密教(東密)の拠点。
 私は中国チベットを訪問したことはないが、中国内蒙古やモンゴル国でチベット寺院を訪問。そのチベット寺院と真言宗寺院は共に密教的な要素、雰囲気がよく似ている。チベット仏教は現在、インド最北部のダラムシャーラーに拠点。釈迦悟りの地・ブッタ・ガヤーのマハーボディー寺院を訪問するとチベット僧に会うこともできる。
 しかし、一般に神秘主義、聖職者中心主義とは宗教の形骸化を意味する。覚者・釈迦の本意とは「如我等無異」の平等主義、これはあなたと私は共に尊厳であるということ。
 真言宗の依経は大日経。訳者は善無畏。善無畏はインドの人、中国に渡り大日経を訳出、解説書も作った。大日経は羅什・「妙法蓮華経」、天台・一念三千法理が既に存在していたとの意味で新訳。当然に功名心から教義を盗み取って大日経に入れ、「理同事勝」を主張。晩年に大病で死にかけた時に悔い改めたと語ったとされる。日本の弘法などの真言僧はこれを知らずに大日経を日本に持ち帰った。やはり功名心から日本にまだ伝えられていない経典を求めたのが動機。古代インド・中央アジアに真言宗はない。
 もともと「真言・印契」に意味はない。真言とは口の呪文、印契とは手の形のとのこと。インドでは両手を合わせて「ナマス・テー」が正式な挨拶だが、これはあなたを敬うとの意味。意味不明の梵語の真言(陀羅尼呪)を唱えるより、「一緒に、元気で、忘れない、頑張って」の励ましの言葉の方がまし。言葉によって心は伝わる。また、仮に最も尊い人間の姿、姿勢を挙げるとしたら、母乳を与える母親の姿に違いない。母の手には優しさが込められている。自他共の幸福を願う姿勢は、その人の言葉と行動に現われる。西洋科学が立脚する帰納法The inductive methodとは、時点比較&現象類推の手法に他ならない。現代の視点からおかしいものはおかしいと・・・評価できる。
 なお、高野町も人口減少が著しく、歯止めがきかない状況、現在3300人(うち僧侶1000人)。街は閑散としている。

5 仏教史-法華経の系譜-
 仏教三千年の歴史を正像末の三時から概括する。釈迦は30歳で菩提樹下において成道して以後、50年にわたって八万法蔵とも表現される経典を説いた。最後の8年間に霊鷲山で説いた法華経について、釈迦は自ら「巳今当」(過去現在未来) で最第一と語っている。そしてさらに自らの教えが二千年で消滅すると述べている。釈迦滅後、その経典は最初の千年(正法)ではインド、中央アジアにとどまった。
 次の千年(像法)でようやく経典が中国へと伝わり、鳩摩羅什は梵語の法華経を漢字「妙法蓮華経」に訳出した。それは釈迦の含意をよく踏まえ要約した名訳とされる。そして中国・天台は南三北七の宗派を論破して法華経第一を宣揚した。また法華経方便品の「十如是」に基づき一念三千法理を展開したが、これは現在の仏教基礎理論となっている。この法華経はさらに百済、中国を経てアジア東端の日本に伝えられた。日本・伝教は同じく南都六宗を論破して法華経第一を宣揚している。
 そして二千年後(末法)に入って、鎌倉時代に日蓮は法華経の意義を問い直し、世の中が乱れる原因として既成宗教の誤りを批判して、法華経第一を主張した。既成宗教は権力と結託して公場討論の場を持たせなかった。しかし日蓮は当時としては例のない膨大な著作を残すとともに、法として存在する「究極の実在」を「南無妙法蓮華経」と名づけ、その題目を唱える対象として「御本尊」を現わした。
 さらに、法華経の中で予言されたとおりに「加刀杖瓦石、数数見擯出(追放)」(死罪、流罪)の迫害・法難を体験したのは仏教史上、日蓮以外にいない。このため釈迦仏法に対比して日蓮仏法と称されるゆえんである。
 インド、中国では仏教は消滅したが、日本では定着した。それは日本人に顕著な自然観、生死観にも見てとれる。それを現代用語でいえば相互依存関係Co-operative relation、生命の永遠No-beginning and No-endingとなる。
 究極の実在The ultimate realityとはいつの時代、どの国どの民族にあっても変わりようがない。いま法華経文上の系譜をたどると、釈迦-羅什-天台-伝教-日蓮の確かな流れが認められる。なぜなら皆、法華経を「我がこと」と受けとめ、その時々に意義を問い直し、我が内と外とに共通する形式・構造として究極の実在を覚知したからである。だからこそ像法時代の天台、伝教は共に、究極の法(妙法)が説かれるとされた末法時代とその国を渇仰する言葉を残している。

6 最後のコメント
 カントは『実践理性批判』の結びで「いかに感歎しても感歎しきれぬものは、天上の星の輝きと、わが心の内なる道徳律」と語っている。これは宇宙と我に共通の究極的実在を意味していると解釈できる。
 私は今回訪問した紀伊半島の4つの霊地(場所)、宗教施設で、そこに高い精神性を感ずることはなかった。現在、人々がこれらの施設を訪れるのは、それが単に世界文化遺産、観光施設だからに他ならない。現代の視点からは釈迦仏法は消滅している、これは釈迦が自ら述べたこと。このため去年の暦を見ているようなもの。客観的には寺院は葬式仏教、墓地経営で成り立っているとの評価となる。
 むしろ大切なものとして私は、人々が自らを見つめ、切なる思いを込め、幸せを願って歩いたはずの参詣道、信仰の道にこそ意味があると思った。そこでは人は豊かな紀伊山地の自然環境に触れている。そこには太古から変わらない自然の営みがある。生命の永遠や森羅万象の神秘までを感じとることができる。そして人はきっと、その刹那の瞬間に永遠を感じたに違いない。なぜなら人間は自然と一体で、同じ形式・構造の存在だからに違いない。さらに今「そのように」ある自分の個別性、連続性の理解を通じて、人は過去、現在、未来へと流れる時間の本質(前後関係Time is dissolved in a context concept)の理解に到達する。それは生命の永遠を感じる人間の宗教的心情の核心と言ってよい。因果関係Cause is before, and Effect is back with one wayとも言い換えができる。
つまり、
①宗教・・・実践によって結果が検証可能
②宗教哲学・・・その要素を論理的に検証が可能(要素:民主主義、多様性、人間主義、人権水準、漸進主義など)
 これに比べて今回訪問した中で、聖職者Priestが意図した宗教的工作物はいかにも作為的で、見劣りがする。色彩で言うと風景にマッチしない、けばけばしい朱色に何の意味があるのかと私は強い違和感を覚えた。
 その宗教的意義について、現代の視点からいかなる精神性もないと評価するとして・・・仮にそこに自然と調和する機能美さえ認められないとしたら・・・結局それは過ぎ去った時間の中でその者の無残な思いが伝わるだけとなる。そして更に、後代末学の聖職者Priestの創作となる秘伝や儀式に意味を認めることも当然全くない。

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